深淵 本当に苦しんでいる人――フィクション | 50dBの世界

深淵

本当に苦しんでいる人のおはなし――フィクション

無遠慮な"からかい"にそれなりの対応が出来るような年齢ではなかった少年の頃、授業中に教員が何かを尋ねてきた。いっきに全身がかっと熱を帯び、唇が震える少年。やがて、コンプレックスの塊りである自身の声を絞り出し、少年は必死に何かを言った。だが教員は、あ?と数回ほど聞き返し、やがてふっと笑い、他の生徒に言った。

こいつ、なんて言ってんの?

今でも思いだす度にどす黒い気持ちになり、当時の教員の顔がまざまざと脳裏に浮かぶ。今ではもうだいぶ年下になったその教員の顔――嘲弄したうすら笑いを浮かべるその顔、今でも不安な気持ちになる。当時の私はその様な事態に全く対応できず、じっと机を眺め、顔を真っ赤にしてはにかむしかなかった。遠い日のその少年はまだ頭の片隅ではにかみじっとしている。私はそこから抜け出せないまま大人になってしまっているのかも知れない。

家から歩いて5分程のところにダイニングバー暖朗という、焼酎と軍鶏料理を楽しめるお店があり、妻と共によく顔を出す。のれんをくぐると店内はほどほどにうす暗く、黒とベージュに赤が差し色となったこじゃれた雰囲気が心地よい。空調の音に紛れてジャズミュージックがかすかに流れている。何の曲かはわからない。ただ「ジャズミュージック」である事しかわからない。かっこつけてボトルキープを一度だけ頼んだ事があるような、そんな程度の私たちなのだが、ママはいつも笑顔で迎えてくれ、木目の大きなカウンター席へと案内してくれる。私と妻のお気に入りの席、白い革張りのゆったりと深いチェアーに腰かけのんびりと時間を過ごす。いつも客は少なく、ふらりと立ち寄った様なサラリーマンや地元のおじいさんぐらいしか居ない。

白いワイシャツに黒いエプロン、まるでバーテンダーの様な風貌をしたママさんが、カウンター越しに何かを話しかけてきた。私は本当に疲れ、どっと頭のなかが煤けている様などんよりした気分だったため、とりあえず聞こえているフリをした。うんうん、とかあーとか、へーとか言ってその場を濁す。空調とジャズミュージック、ママの小声、それらが塊りとなり四方の壁に反響し、一斉に私の耳に襲いかかる。ママさんの話しはほとんど妻が聞いてくれており、そうなんだーと適度に盛り上げてくれる。妻の声は良く通り、私の耳に心地よい。妻とママさんだけの空気が店内に流れ私は口をつぐむ。一人焼酎をあおり料理をほおばるものの、胸は疎外感でいっぱいになる。それでもその黒い感情を押し殺し、相槌を適度に打ちながらその場を一緒に楽しんでいるフリをする。ときどきはじける二人の笑顔と嬌声、私も慌てて笑顔で応える。とにかく雰囲気を壊さない様に細心の注意を払い焼酎を飲む。

その日、妻は入会している合唱団の合同会議があるとかで朝早く出掛け、私はベッドの上でひとりぼっちだった。いつも忙しい平日を過ごす私と妻は、土曜の朝には本当に何もかもやる気をなくし、だらだらとお昼まで過ごすのが通例となってしまっている。

ベッドの上でスマートフォンをいじりながら時たまベッドいっぱいに手を放り投げる。いつもなら妻の身体に腕があたり、妻が可愛らしく怒ってくるのだが、今日はむなしくベッドのふちを叩くだけだった。途端に寂しさに襲われ、慌てて起き上がる。今日は夕方から会社の納涼会があるが、まだまだ時間がある。そうだ、お中元を買わなきゃ――そんな考えがふと浮かんだ。妻の実家にはお世話になり通しなのに、結婚式以来なかなか挨拶にも行っていない。お父さん怒っているよ!と冗談めかして妻が笑っていた。ここから車で40分ほどの場所に大型のショッピングモールがある――今日はそこまで行ってお中元でも買ってこよう。そして、納涼会までノンビリしよう。私はめいっぱい時間を掛けだらだら起き上がり、身支度をした。

エアコンを掛けてもなかなか涼しくならない車中、全身にじっとりと汗を浮かべハンドルを握る。照りつける太陽の日差しが容赦なく顔に突き刺さり、やっとの思いで到着したショッピングモールの広大な駐車場。毎週末繰り広げられるお馴染の光景、炎天下の場所取り合戦。誰もが攻撃的になり運転も荒くなる休日。やっとの思いで停められた場所は第三だか第四だかの、施設入口より遥か遠方の駐車場。真っ黒に日焼けした誘導員が、いらっしゃいませ!と大声を出す。強烈な日光を浴びながら、焼けたアスファルトの上を、前の人の体臭に辟易しながらも黙々と歩く。このままでは靴裏が溶けてしまうのではないだろうか――そのような心配が頭をよじった頃、ようやく入口に着く。

贈答品専門店のショーケースをぶらぶら眺める。大型施設と言えども空調は抑えめで汗ばんだ身体はずっと汗ばんだままだ。背中に汗のしずくがだらだらと走るのを感じる。家族連れやカップル達の声が、館内のミュージックと交じり合い、辺りはごうごうと音の洪水にまみれ、私の耳元まで渦巻いている。背後では服飾店の店員が"タイムセール中"の看板を掲げ、ありったけの力を込め、わーっと叫んでいる。その声のみが轟音の上っ面にこびりつき、きいきいと聞こえる。

ショーケースを眺めていると店員と目が合った。なかなか器量が良く、にこやかな店員である。その店員が轟音の中、何かを言っている。何かお探しでしょうか?若しくは、お決まりでしたらお声掛けください、とでも言っているのだろう、と適当に想像し、はいと応える。すると、店員はにこやかに頭を下げ顔を逸らした。

暫く迷ったが、漸く買うべき物が決まる。店員はカウンターの中に2.3名程居て、それぞれ注文品の梱包や客の対応をしているが、誰にともなく――すみませんと声を掛けてみる。だが、私の声は音の洪水に掻き消えてしまったのか店員の反応はなかった。もう一度言い直してみるが、相変わらずそれぞれが作業に集中し、こちらには気づいてくれない。三回目は少々力を込め大きな声を意識して言ってみる。

すみません!

――すると、一斉に店内の人々がこちらを振り向いた。じろじろと無遠慮な視線が注がれ、私は慌てる。最初に声を掛けてくれた店員が手を止め、すっ飛んできて何かを言う。抑えた声ですみません、これをくださいと声を掛けるが、店員はにこやかな顔を崩し、はい?と耳をかしげ怪訝そうな顔をする。すみませんこれください、とまた大きな声を出してしまう。店員は明らかにむっと不快な表情を浮かべ、あちらへ―と手を差し出す。示された席に腰を掛けると、店員は早口で何かを言ってきた。隣ではやけに大きな声のご婦人が別の店員と話し込んでおり、その声が轟音の上辺に漂い、私の耳に入ってくる。目の前の店員の声はそれらの中に掻き消え、全く聞こえない。はい?と聞き返すと、店員はもう一度何やらモゴモゴと言ってくる。だが、隣のご婦人の声がやけに大きく、そればかりが耳に入ってくる。背中に這いつくばる汗、手がじんわりと湿り気を帯び、口の中がからからに乾く。どうしようもない不快感の中、私は声を絞り出す。

聞こえないよ!はっきりとしゃべって!

店員の表情が怯えに変わった。隣のご婦人の会話がぱたと止む。店員の口元まで耳を寄せてみるが、また同じイントネーションで同様の事を喋る。何を言っているのか全くわからない。はあ!?と聞き直し、また繰り返させる。最初のにこやかな表情は全く失せ、眉間にシワを寄せる店員。全神経を集中させ、轟音の中から店員の声を探す。そして漸く意味を汲み上げる。恐らく、贈り物でしょうか、と聞いているに違いない。贈り物でしょうかと言ったんですかと聞くと、はい、と言ったのが口の形でわかる。そうです、贈り物ですと応えると、また店員が何かを喋ってきた。

気が付くと全身汗まみれになっている。私にはこの場所でこれ以上の会話を行う事は難しいようだ。今日は本当にうるさい。たった数センチ目の前の声を聞き取るだけなのに、私はあらん限りの努力はした。もう諦めよう。私は眉間にしわを寄せ、まくしたてた。

お中元として贈りたいので熨斗をつけてください、名前は入れなくて結構です、今日持って帰ります、以上、会計してください。

店員は明らかに苛立った表情を浮かべ何かを話掛けてきたが、私は眉間にしわを寄せ続け1万円札をレジに放り投げる。凍り付く店員。だが、店員は努めて冷静にお釣りをトレーに載せ、番号が書かれたプレートをそれに添えた。そして何やら喋りかけてきたが、恐らく熨斗をつけるのでこの番号札を持ってお待ちください、といったところだろうか。私はうんともはいとも答えず、それらを受け取ると目も合わせずにその場を離れる。

同じ店内で商品を物色するフリをしつつ、絶えずカウンターの中を注視する。手元のプレートには85の文字が書かれている。店内は私のようにお中元を買い求める客で賑わっている。時たまカウンターの中で店員が声を張り上げるが、恐らくあれが番号札の呼び出しだろう。何回か注視していると、・・・番でお待ちのお客様、と言っているのがわかる。だが、番号はどうやら連続していないようだ。カウンターの中で番号の呼び出しが始まったら、辺りを見回すようにする。番号を呼ばれても誰も歩み寄らなければ、恐らく私の番号が呼ばれているのだろう。

店員が声を張り上げた。先ほど対応してくれた店員だ。しばらく待ってみたが誰も歩み寄るものが居なかった。それらを確認した上で、私はその店員に歩み寄り、番号札を見せた。すると、その店員はその番号札を押し返し、くるりと踵を返し、くすくすと笑った。肩が小刻みに震えている。かあっと身体が熱くなるのを感じ、鼓動が早まる。額から汗が吹き出す。へへっと私は慌てて無様に笑い返し、後退りした。

私の表情をちらと見て、店員が盛大に吹き出した。慌てて口元を両手で押さえる店員。私は慌てて目をそらし、しゃがみ込む。あの顔は見たことがある。そうだ、あの教員の顔だ。はあはあと呼吸が苦しくなる。胸を握りしめその店を出る。教員の目の届かない場所に設置されているベンチにようやく座り、呼吸を整えようとする。ごうごうと勢いを増す轟音の中、しばらく頭をうなだれじっとする。

笑われた。

私の行動を笑いやがった。

顔からだらだらと汗とも涙ともわからないしずくがボタボタと垂れ、足元に水たまりを作る。大勢の人が私の頭をかすめ行き交うが誰も私には目をくれない。轟音の中、私はひっそりとむせび泣く。泣いていることを悟られまいと、ひたすら頭を下げ続ける。

その手は痛むの?大丈夫?と妻が声を掛けてきた。私は焼酎のロックをあおり、慌ててかぶりを振る。大丈夫だよ、ちょっと転んだんだ。そう応えると、妻は心配そうな表情を浮かべる。店内のカウンターはいつの間にか数人の客で埋まり、見たことのある常連さんがほとんどを占めていた。ママさんは彼らの対応に追われている。ふすまで仕切られた背後の個室には数人の団体客が居てがやがやと賑やかだ。妻が私の耳元に口を寄せ、はっきりとした口調で言った。聞こえる?私はにっこりと笑い応える。ああ、聞こえるとも!本当に君の声は聞き取りやすく心地いいんだ――世界が君の声だけならいいのに。妻はケラケラと笑う。今日はすごい混雑していたけれど、お中元も準備出来たよ。今度、ご実家に顔を出しに行こうよ。うん、と妻は大げさに頭を振り、続けて言う。それはそうと、今日の納涼会は楽しめた?

そろそろ夕方6時になろうとしていた。やっとの思いで手に入れたお中元の品を助手席に置き、私は指定された居酒屋に向かう。会社の納涼会への参加は義務ではないが、こんな機会だからこそ普段コミュニケーションを取らない人たちに話しかけ親睦を深めましょう、といったニュアンスの訓示を社長がたれるものだから、事実上強制参加みたいなものだ。雑木林風の木々に埋もれた白い平屋建てのその居酒屋はなかなか高級な装いであった。正面に大きな一枚板のドアが足元の照明に照らされ、夕暮れの中てらてらと光っている。私はそのドアを押し中に入る。早い時間であるためかさほど賑わっておらず、私はほっとする。幹事を務める会社の若い子が私を目ざとく見つけ、笑顔であちらの部屋です、といったニュアンスの事を言った。見ると参加者40名程全員が座れるであろう、畳敷きの大広間があり、既に何人かが着席し、ところどころ仲の良い者同士でくっつき話し合っていた。若い者達が口々にお疲れ様ですと私の姿を認め声を掛けてくる。私は曖昧に応え、隅っこのなるべく目立たない席に座った。

酒宴が進むと辺りは一気にやかましくなった。酒が入り大きな声を出す若い子達、納涼会とは別の席にいる大勢の酔客による嬌声、ほとばしる轟轟とした音。私は一滴も酒を飲まず、覚めた目で彼らを眺め、ひたすら目の前の食事を片付ける。同僚が私の隣に座り、話しかけて来た。私の目を見つめ、笑顔で口をパクパクさせている。だが聞こえて来るのは出席者40名程全員の話し声と突発的な笑い声、別席の酔客の声、店員のどなり声、空調、音楽、それら全てを混ぜ合わせた固まりだけだ。轟轟ととてつもない騒音の波にのまれ同僚の声はどこかに消えて行く。え?と、同僚の口元10センチ程までに耳を寄せる。今度はかすかに同僚の声が聞こえて来る。音の固まりの表面、わずかにこびりついている。だが、まだまだ会話の末尾であろう部分しか拾えない。で、ですよ、ます、などわかりやすい部分だけかろうじて拾える。

私は十分努力した――聞きとるためにあらん限りの努力はしたんだよ。ごめん、良く聞き取れないと返すと、悲しそうな顔をして同僚は去っていった。私はとても悲しい気持ちになり、昼間の教員の顔を思い出す。憎々しい、あの血まみれた教員の顔。

相変わらず店内は音の大洪水に満ち溢れている。そんな中、私は誰にもなるべく話しかけられないよう、ひっそりと食事を摂り、行きたくも無いトイレに何十回も行くために席を離れ、時には店の外に出て近隣をぶらぶら散歩する。なぁに私が席に居なくても誰も気づきやしないさ。そうやって時々時間をつぶし、出来る限り満喫しているかの様な表情を浮かべ店内に戻る。皆の笑顔に合わせ私も笑顔の仮面を付け、しかしひたすら心のなかで毒づく。何がそんなに可笑しい?こんな茶番はとっとと終わりにしろ!そうして、ひたすら一緒に楽しんでいるフリをする。

ああ、楽しかったよ!私は妻にそう応え笑ってみせた。そう――と妻はにっこり笑い返してくれる。しかし、なんて君の笑顔はキュートなんだろう――笑うと目はなくなり、頬に窪みが出来る。どうやら僕は君の笑顔に惚れてしまったようだ。今日も改めて惚れてしまった。いつまでも傍らでそっと笑顔で居て欲しいんだ。そのためなら僕はあらん限りの努力をいくらでも献上して見せるさ。妻がけらけらと笑った。

焼酎を存分に楽しみ店を出ると、夜は随分と深まってきており、いくぶんか涼しくなっていた。ぼんやりと家の方向へ目をやると、空が赤く明滅しているのが見えた。あれ?何だろう?と妻が言う。この道を五分ほど歩けばすぐに我が家だ。とぼとぼ二人で手を繋ぎ支えあいながら歩くと、その明滅の正体がわかった。

私は足を止め、妻の手を振りほどく。ごめんよ。妻の顔がさっとこわばる。踵を返し、走った。だが、すぐに足がもつれ、硬いアスファルトに倒れる。妻が何かを叫んだ。そして野太い男の声が響いた。待ちなさい!ちょっと!ドタドタと革靴の音に囲まれ、まばゆい光に顔を照らされる。なぜ逃げたんですか?落ち着いてください、警察です。――手がずきずきと傷んだ。

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