母の手記より――難聴の子を持つ親の気持ち | 50dBの世界

母の手記より

私の母親が昭和55年(1980年)から56年にかけ綴った手記の一部を記載します。
今から32年前、私がまだ5才の頃の手記です。当時はアナログの補聴器しか存在せず、今の様なインターネットなども考えられなかった時代です。情報は思うように集まらず、文中に登場する先生も恐らく試行錯誤の連続だった事でしょう。

母の苦悩が目に浮かび、読んでいてとても辛い手記ですが、今は「こんなに悩んでいた時期があったんだな〜」程度のようです。

手記は記載したもの以外にもまだまだあるのですが、ほとんど練習内容の羅列のため割愛しました。また、文中に出る施設や個人名などは一部変更してあります。

S55年 9月24日

補聴器の装用はうまくいかない。今日も好きなテレビを30分、そして本を読んであげたりその他で1時間15分ばかり装用。お風呂へ入るまで補聴器をはずさないでネと強要したがだめだった。「ぼく疲れたよ」が理由。

絵本を読ませて発音のおかしい所を言い直させる。

その他、言葉の意味のあわからない所を例をあげて説明する。

わからなかった言葉
むかいの部屋  むかいあう  みあげる  しのびあし  ゆっくり(歩く)  みまわす  いきをころす  おそるおそるあるく  しだいに  むちゅう

お風呂でコップへ水をいれて吹いて飛ばさせてみた。本人は遊びの心算でよろこんで一生懸命やっていた。

S55年 9月29日

50音の発音の練習。特にサ行とた行。
ストローでの舌の訓練

S55年 10月1日

ストローでの舌の訓練

ナオコ(姉)と一緒に、一生懸命にやってくれる。今日は保育園で親子おどりの練習があった。リズムにのって良くやれた。園での様子を見てみると拡声器から流れる先生の声を聞き取れていない様子だった。耳の近くでもう一度言い直せてあげるとすぐ行動にうつせた。

S55年 10月2日

ストローでの舌の訓練。

「またなの」と言いながら良くやる。50音の発音の練習。
い→に
し→ち
す→う
つ→う
に聞こえると言う。

発音できなった音。い(ぎ)し(ひ、き)つ(す)ひ(き)

絵本を読んであげてわからなかった言葉
とつぜん、そりかえる、おしゃべり、ちょっぴり、ものしり、ひな(鳥)

S55年 10月3日

今日は聞こえの教室での勉強の日であった。

教室には喜んでいく。行きながら建築中のビルがあったのを興味深くみながら色々と話をした。今日の教室でのお勉強はウェハースを使っての舌の訓練と風船を使っての発音の練習だった。帰りに岡田先生から風船をいただいて来た。あまりにはしゃぎ過ぎたのでたくさん石の敷いてある校庭でころんでおでこを二カ所切ってしまった。帰りにあわてて川口外科へ。たいした怪我でなくて安心した。そして帰りにスーパーマーケットで教室で使ったウェハースと同じ物を買って帰り、ナオコと二人で舌の訓練をさせる。二人共喜んで一生懸命やった。

S55年 10月6日

今日は昭和医大へ元樹、ナオコと共に行って来る。補聴器の調節をしていただいて3週間の貸し出しをうけて帰って来た。もしこのままで装用が習慣づけばこちらで補聴器を購入して再び昭和医大で調節していただいて装用する事をお願いして帰ってきた。

S55年 10月9日

50音の発音の練習をする。
し→ち
す→にごる(はっきりしない弱い)
せ→て、しぇ(はっきりしない)
そ→はっきしない弱い
ち→き
と→とう(tu)
ウェハースでの舌の訓練は毎日続けている。

S55年 10月13日

ストローでの舌の訓練とウェハースの訓練。
今日は父親と一緒に発音の練習をする。母親としている時より頑張っている。
せ→5回に1回位(て)(tue)
ひ→ち、き
つ→とう(tu)
さ→tua(にごる、はっきりしない)

補聴器の装用がみにつかない。強要しないとしようとしない。30分位つけるとすぐ取り外してしまう。「聞こえるからいいよ」とか姉のナオコが話すと「うるさいよ」などと言う。

S55年 10月20日

今日は保育園が終ってから浜町耳鼻科へ。

S56年 5月9日

昨日はナオコと一緒にき音、ち音の発音練習をした。ここの折、新しい学校での生活でせいいっぱいの元樹、早く学校になれて喜んで通学して欲しい。体力もないし、小さいのでだいぶ疲れるらしい。ここの所、発音練習をさせるのが可愛そうなので、中央小、岡田先生まかせ。もう少ししたら元樹の様子をみながら毎日始めたい。週に2〜3日不定期に日記を書かせている。それによって岡田先生の発音訓練を行っていただいている。元樹も表面は非常にあきっぽく見えるが、じっくりととりくませると途中で投げ出す事はしない、なかなかの頑張りを見せてくれる。ゆっくりとあせらないで元樹の成長を待ちたい。

S56年 5月8日

中央小学校きこえの教室での勉強。岡田先生と5月の連休を話題にしてカタカナの勉強をする。 先生からカタカナをどんどん教えていった方が良いですよとのアドバイスをいただく。

S56年 6月1日

今日、き音がだいぶはっきりしてきた。少しでも聴力があると言う事は有り難い。このままの状態で悪い方へ向かわないで欲しい。発音の練習も一生懸命ついてきてくれる様になった。今週いっぱいで、き音を卒業できたらと思う。元樹一緒にがんばろうね。ねを上げないでついて来て欲しい。

S56年 11月13日

聴力がだいぶ下がってしまっている。このままだんだん聞こえなくなって行ってしまうのかと思うと不安でいっぱいである。耳鼻科に行ってもこれという治療がないし、神仏に願うだけの今日この頃。まだまだ不安な毎日の中で自分とそしてこの子達とどのように進んで行くべきか…今進んでいるもやもやしたこのキリの中から。いつの日か遠くの方に明るく輝いた抜け道が見えるに違いない。そしていつかその中を両手をいっぱいに広げ、元気に笑いながら家族五人そろって歩む日があまり遠くない様に思える。人間の苦しみ悲しみは一生の内で乗り越えなければいけない量は決まっているのではないかな。私は子供の頃のんきに過ごして来てしまった。そのため今苦しまなければならないのだろう。そして、今頑張っているナオコ、元樹は必ずや大人になった時、幸せが待ち受けているであろう。

以下は聞こえの教室に通っていた当時、障害児の親達が綴る手記集の中に掲載されていた母の手記。

忍耐と勇気をもって

"言葉がなかなか出てこない"そんな疑問をいだいた2才頃、児童相談所へ行きました。そこでは家族の話し掛けをなるべく多くする様にとのアドバイスをいただいて帰ってきました。それから一年余り、5才の長女を頭に2才の次女、産まれたばかりの長男とを抱えて頑張ってきたつもりでしたが、3才児童診の時も、言葉はとても少なく同じ様な状態でした。その頃から聞こえが悪いのでないかと思い病院へ連れて行きました。医師の診断では「目の輝きから見ても耳は聞こえていると思うので考え過ぎでしょう」ということでした。安心したのと共に不安はますますつのりました。再び児童相談所にお世話になり前橋の中央児童相談所を紹介していただき、そこで難聴である事がわかりました。補聴器を使って反応を調べてもらう子供の姿を見つめていると涙が流れて仕方がありませんでした。それから週一回の発音訓練を六ヶ月間受け、その後、中央小学校「きこえの教室」を紹介していただきました。その後、長男である弟も難聴である事がわかり、二人の難聴児をかかえ、よいと聞いた病院を回ってみましたが、どの病院でも結果は同じでした。どうすることもできない自分と運命を呪わずには、いられませんでした。どうにかして健康な耳にしてあげたい、そんな気持ちから、どうしてもぬけられずに祈祷師に願ったり、神頼みをしたり…大学病院からの帰り道、うす暗くなったホームへ立った時など、いっそのこと、二人の子供と共に死んでしまおうかと思ったこともありました。

しかし、人間って強いものですね。現在では障害があるならそれでもいい、持っている力すべてでのびて欲しい。そして障害者であるという事に甘えることなく、忍耐力と勇気を持って自立して欲しいと思っています。

現在、この気持ちになれましたのも親身になってご指導下さった先生方、そして先輩方の貴重な体験の積み重ねがあったからこそと心から感謝しております。今年は国際障害者年でもあります。わが子より重度の障害を持つ方の苦しみを分かち合えたらと思うと共に、不幸にして障害を背負ってしまった子供たちが、多くの理解者を得て、社会の一員として自立できる日まで、障害に負けることなっく頑張っていって欲しいと願っております。

ページトップ